「わたし」以外のとこは気にしてられない

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こんにちは。モギコです。

節分は新年らしいので、新年扱いして封印していた昨年の心情を振り返ってみる。
整理の時間を持ちたいと思います。

去年一年、色々と環境の変化が多く、いわゆる「負の感情」にとらわれる時間が多かった。
あの時、私自身がああしてたらよかったかな、という感じで
自分を責めてしまうこともありました。

結論から言うと、そういう時間ははっきり言って無駄だった。
ただひたすらにわたし自身を堕とすだけの時間だった。と気づいた。
そういう時間は、かわいそう扱いになるだけで何も変わらない。
堕ちる時間は、『一旦堕ちるところまで落ちたら、あとは浮上するだけ』
と言われるように、一回で充分だった。

自分でどうにかできることと、自分ではどうにもならないことがある。
その辺をさっさと見切りをつけて、離れていかないと進まない。

恨みや妬みや羨望って、対象があるから沸く感情だと分かった。
対象は「わたし」じゃないところにある訳で
そこをコントロールしようとしたって、そんなことは無理。

わたしだってそうだ。誰かに強制されたからってやらないしやめない。
ただそれだけのことなので、自分で想像していた一寸先が違うというのは在って然るべきのことなのだ。
わたしが決められるのは、そのままそこに身を置くか、いやいやそれならいらんでしょ、と
そこから離れるかのどっちか。
そこは判断の主体がわたしにあるのでどうにかできる。
主語が「わたし」でないものにとらわれても何もできない。
そこを「わたし」が行動を変えれば結果が変わったかもしれない、などと考え
思い悩むのは、本当に無駄な時間と労力でしかない、という結論に至った。

そうなると楽になった。
取り巻く全てのいろいろはそれぞれの意思で動いている。
わたしもその一部なので、淡々とわたしの思うことだけをするのだ、と納得できた。

子どもの反応に、クワっとなることはゼロにはならないけど
まあ、そうだよな、と。
裏を返せば、それまでは思い通りになると思ってたからそういう思考が出るのだから
それはそれでヤバい感覚なのだ。

暦の上では春。
感覚の芽吹きも大切に、またワクワクすることだけにアンテナを立てて過ごしたいです。

言葉が雑です。

モギコでした。

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